第2課

【2】世界の一体化せかい の いったいか

18世紀に始まった第1次産業革命は繊維産業を中心とする軽工業であり、蒸気と石炭が動力源であった。この後19世紀半ばにヨーロッパ諸国で起こった第2次産業革命では、石油・電力が新動力源となり、このような工業の発展には大きな設備投資と商品の大量生産が必要なため、企業のカルテル・トラスト・コンツェルンが進み、独占資本主義が形成された。こうした情勢があったため、各国は更なる市場・原材料・労働者・投資の対象の確保の必要性が出てきて、アジア・アフリカ諸国での植民地拡大を目指し、列強各国は対立することとなった。これを帝国主義と呼ぶ。
1800年代、ヨーロッパ諸国はアフリカの植民地拡大を目指して争った。イギリスの帝国主義政策は3C政策と呼ばれるケープタウン・カイロ・カルカッタを結ぶ植民地獲得計画を打ち出した。まず、イギリスはエジプトのスエズ運河を手に入れると、エジプトを保護国化した。そして、ケープタウンを目指し、南下した。これに対して、フランスはアルジェリアからサハラ砂漠を経て、アフリカ大陸東岸へのアフリカ横断政策を推し進めていた。この両政策に従って軍を進めていた2カ国はスーダンのファショダで衝突し(ファショダ事件)緊張状態になったが、フランスの譲歩という形でこの事件は収まった。ファショダ事件後、両国はイギリスのエジプト・スーダンでの優越権、フランスのモロッコでの優越権を認め合った。その後イギリスは南アフリカでボーア人(ブール人とも言う。オランダ植民者の子孫)と南ア戦争(ボーア戦争)を起こし、これに勝利すると南アフリカ連邦を組織し、自治領を作った。
列強によるインドの植民地化は次のように行われた。ヨーロッパ諸国は17世紀以降、東インド会社1を作ってインド貿易を行っていたが、次第に貿易の独占を図るようになり、インド国内に勢力争いを持ち込んだ。特にイギリスの勢力拡大はすごく、1757年のプラッシーの戦いでフランスに勝利すると、フランスをインドから追い出し、インド貿易を独占するようになった。イギリスとインドとの貿易の中でインドの富はイギリスに流出し、インド人の間でイギリスに対する反感が高まった。そんな中起こったのが1857年シパーピー(セポイ)の反乱で、イギリスはこれを鎮圧すると、東インド会社を解散させ、イギリス女王を皇帝をするインド帝国を成立させた。こうして、イギリスはインドを完全に支配下に置いた。
 中国では当時支配していた清朝の支配体制が崩壊し始めていた。これは重い税金に苦しむ農民や少数民族の反乱によるものである。イギリスはインド・中国間で三角貿易2を行い、インドのアヘンを中国に密輸させた。しかし、中国がアヘンの取り締まりを強化すると、イギリスとの間でアヘン戦争が勃発した。この戦争に敗北した中国は不平等条約3で更なる重税に苦しむようになり、その後起こったアロー戦争でまたイギリス・フランスに負けると、半植民地化状態となった。
 アメリカはアメリカ大陸の開拓を行っていたため、ヨーロッパ諸国の植民地化政策に遅れを取っていたが、西海岸でフロンティアが消滅すると、1898年米西戦争(アメリカ−スペイン戦争)を起こし、キューバを保護下に置き、スペインからグアム島・フィリピンを獲得した。また、同年ハワイ王国はアメリカに併合された。



[問1] 帝国主義時代のイギリスが行ったことで正しいものを1つ選びなさい。

(1)インドにインド人を国王とする帝国を成立させた。
(2)アヘン戦争を起こし、中国に不平等条約を結ばせた。
(3)第2次産業革命後、「世界の工場」と呼ばれ、圧倒的な経済力を持った。
(4)横断政策を進めるフランスと南ア戦争を起こした。

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